那須与一宗隆(なすのよいちむねたか)―。 平安末期の武将で、那須資隆の十一男。
源義経の軍に従軍し、屋島の合戦に出陣。
一の谷の戦い、屋島の合戦の2度、 思わぬ奇襲によって陸戦に敗れた平家軍は、 得意の海戦で形成を立て直そうと舟で沖合に逃げる。
これを追って、海辺に陣を構える義経軍。
すると、平家軍は扇を立てた小舟を流し、 戦の行く末を占おうぞ」と挑発。
与一は、波打ち際に馬を進めると、矢をつがえ、
「南無八幡台菩薩、我が国の神明、日光の権現、那須の湯泉大明神。 見る見るその矢は、扇の要を打ち抜き、
那須与一のこの一矢は、源氏の士気を大いに高め、 この後、海戦となった壇ノ浦の戦いで、平家は滅んでいくのである。
本年の山車は、波間に馬で乗り出し、 矢をつがえんと構える与一宗隆の雄姿を飾る。
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盛岡市本宮に鎮座する大宮神社は、 平安時代初期、坂上田村麻呂が戦勝を祈願して 建立された約1200年の歴史を誇る古社である。
この祭神は、「豊受大神宮」といって、 伊勢神宮外宮の祭神である。
豊受大神宮は、食物・穀物を司る女神。
大宮神楽は、その大宮神社に奉納される神楽で、 天保9年(1838年)に編纂された神楽本には、 全18演目が記されている。
藩政期には、盛岡城内で幾度も神楽が披露されたという 記録があり、また、藩公(時の藩主)から下賜された神楽衣装 も残っているなど、県内でも随一の由緒ある神楽である。
本年の見返しには、この神楽の姿を飾る。
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