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俵藤太秀郷(たわらのとうた ひでさと)(藤原秀郷)(生没年不詳)は、
平安時代の武将。従四位下。武蔵守、鎮守府将軍。
 
出自に関しては不明なことが多い。
 
 
天慶2年(939年)、平将門が挙兵し、
関東8ヶ国を制圧(天慶の乱、平将門の乱)すると、
平忠盛、藤原為憲と連合してこれを討ち、この際、
宇都宮大明神に授かった霊剣で、平将門を討ち果たしたと伝わる。


この戦の勲功により、従四位下に列せられ、
武蔵守、鎮守府将軍にも任ぜられた。


百足退治は、藤太が武人として名を馳せるきっかけとなった物語である。

ある日、藤太が近江国の瀬田の唐橋を通りかかったところ、大蛇が横たわっていた。

藤太は臆せず、その大蛇を踏みつけ橋を渡っていった。

その夜、美しい娘が藤太を訪ねる。

話を聞くと、昼間、藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたもので、

自分が琵琶湖の龍神の一族の子であること、

龍神一族が三上山の百足に苦しめられていることを伝え、

剛気滾る藤太を見込んで百足の退治を懇願しにきたのだと話す。

 

藤太は快諾し、得意の矢を携えて、三上山に向かう。

しばらく待っていると、大きな地鳴りと共に、山を7巻きするほど巨大な百足が現れた。

藤太は矢を放つが、大百足の硬い殻には傷一つ付かない。

いよいよ最後の1本となった矢に唾をつけ、

「南無八幡大菩薩、この矢、当たらせたまえ」と八幡神に祈念して射ると、

大百足の眉間に命中し、これを退治することができたのであった。

 

藤太は龍神の娘からお礼として、「米の尽きることのない俵」などの宝物を贈られ、

これが元で、「俵」の藤太と名乗ることになったと言われる。

また、後の平将門の乱の際、この龍神の助けによって、

平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。

 

本年は、この俵藤太の百足退治の臨場感を山車に飾る。


盛岡山車としてこの演題を飾ったのは、明治、大正期にまで遡り、
厳密に百足退治の場面を飾ったのは、
明治時代初期までの紺屋町の丁印のみで、「俵藤太」としては、
竜宮、大蛇と共に飾られた大正期の鉈屋町、油町の山車が、
併せて記録に残っている。
 
※出展「すてきなおまつり」歴代演目悉皆調査

 
大正9年(1920年)、油町が俵藤太と大蛇と姫を飾ったのが最後、
ということで、実に94年ぶりに盛岡山車に俵藤太を飾った。
 
 

 

 

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むかで姫とは、南部利直公の正室・源秀院のこと。

 

源秀院の先祖は、俵藤太秀郷で、かの百足退治に使った
矢の根を持って、 南部家27代利直公に嫁いできたのである。


源秀院が亡くなった際、亡骸の下の変色した形が、
百足がはいまわる姿に似ていたことから、
「源秀院が持ってきた百足退治の矢の根の怨念だ」と人々は騒いだ。


百足の怨霊封じのため、濠をめぐらした石造りの墓地には、

堀を渡る橋が架けられが、利直公の渡り初めの前夜、
大量の百足により、橋は壊されてしまう。

 

 

その後も、源秀院の墓には、無数の百足が湧き、

源秀院の髪の毛が隻眼の蛇となって、石垣の間からはいまわっていたといわれ、

 

こういった言い伝えから、
源秀院は人々から「むかで姫」と呼ばれるようになった。

なお、源秀院のお墓は、

岩手県盛岡市名須川町8-4
に現存しており、「むかで姫の墓」として今でも親しまれている。


本年の見返しは、俵藤太と盛岡市に所縁のある、源秀院(むかで姫)を飾る。
 

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