時は鎌倉時代初期。
鎌倉幕府は、二代将軍頼家の死後、三代実朝が幼くして将軍職に就き、初代頼朝の妻・北条政子や二代執権の北条義時を中心に、北条家が執権として発言力を強め、さらに、頼朝の死後度々勃発した梶原景時、比企能員、畠山重忠ら有力な御家人たちが争い滅んだこともあり、ますます支配を強めたのであった。
そんな中、鎌倉幕府設立の最大の功労者の一人である侍所別当の和田義盛は、北条家打倒の動きが有るという疑いにより、親族が罰せられ、その後の幾たびの挑発と積年くすぶり続けた不信により、北条義時に対し挙兵。
いわゆる「和田合戦」がこれにより勃発。 この和田合戦において、 義盛の軍勢の中で最も奮戦したのが、 義盛の子・朝比奈三郎義秀だったのである。
自慢の怪力で、惣門の石畳を担ぐと門に投げつけこれを打ち破り、 御所の南庭に進出すると、北条方の御家人たちを次々と撃破、 北条方に加わった従兄弟の高井重茂とも一騎打ちで打ち倒すと、 大将の北条義時にも怪我を負わせる等、「神の如き壮力をあらわし、 敵する者は死することを免れず」と称賛される活躍ぶりだったと伝わる。
戦には敗れたものの、所領の安房国に逃れた後、 その後処罰の記録等は無く、様々な地に伝説が残る武将として伝わっている。
本年の山車には、盛岡山車では伝統的なこの石畳を投げつける 「惣門破り」の豪快な姿を飾る。 |