安倍貞任(あべのさだとう)は、平安中期の武将で 陸奥国(現在の岩手県)の豪族・安倍頼時の第2子。 厨川柵(現在の盛岡市厨川)に居を構えていたことから、 厨川次郎とも呼ばれる。
代々、陸奥国の豪族として栄えてきた安倍氏は、 奥六郡(現在の北上川流域)に柵を築き、独立した組織を作っていた。
これに対し永承6年(1051年)、時の朝廷は藤原登任を派遣するも、 貞任の抵抗にあい、あえなく敗退する。
朝廷は、この結果を見て、源頼義を派遣、 ここに「前九年の役」が開戦する。
最初は貞任率いる安倍軍が優勢で、頼義の軍勢は 苦戦を強いられたものの、かねてより安倍氏と領土争いをしていた 隣国・出羽国仙北(現在の秋田県)の豪族・清原武則が頼義方として 加勢したため、次第に形勢は逆転。
奮戦虚しく、安倍貞任は嫗戸柵(現在の安倍館町)で敗れてしまうのである。
本年の山車は、嘶く馬上にて敵陣を見る安倍貞任の雄姿を飾る。
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岩手や宮城では、小正月の頃に一年の豊作の祈願や田遊びとして、 田植踊りが各地で伝承され、今も郷土芸能として演じられている。
わ組の拠点である前潟周辺では、前潟の南東部に位置する太田周辺が 盛岡の米の産地で、上鹿妻地区に伝わる「上鹿妻田植踊り」が 今も伝承されている。
本年の山車では、本年の米の豊作を祈念し、田植踊りの姿を飾る。
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