源 義平は、源義朝の長男。
※つまり、源頼朝や、義経の兄に当たる。
1155年(久寿2年)、父・義朝が叔父・義賢と対立して
勃発した「大蔵合戦」では、義賢の居城である大倉館を急襲し、
義賢らを討ち取り、一躍「鎌倉悪源太」
=鎌倉に居を構える強い源氏の長男、として武名を上げる。
保元の乱を経て、藤原摂関家の影響力が後退し、僧・信西が
政治的に頭角を現すと、院近臣や、新天皇の親政を目指す天皇側近が、
信西を敵視。ついには、信西討伐のための三条殿焼き討ち事件が発生し、
クーデターが勃発。このクーデターで、藤原信頼側は密かに源義朝を
大将とする東国武士団を中心に挙兵、一方この動きに気づいた
天皇親政派も、平清盛を大将とする平家軍に追悼の勅旨を与え、
これが世にいう「平治の乱」の幕開けである。
中でも、源義平が活躍するのは、
平清盛の長男・平重盛との一騎討ちとなった「左近の桜、右近の橘」。
平重盛を筆頭に平家軍500騎が侍賢門を襲撃し、その猛威に怯んだ
藤原信頼が逃げ出すと、義平は、坂東武者17騎を引き連れ侍賢門に向かい、
たった17騎で平家軍を蹴散らした。
その際、義平は、重盛に組みかかろうと内裏の左近の桜、
右近の橘の間を8度も追い回したが、重盛は冷静沈着に、
混乱した軍を引き上げ再度新手の500騎を引き連れて
門内に突撃する。しかし、義平は再度、重盛に向かい
「嫡男同士不足はない、堂々やり合おう」と挑みますが、
重盛は、まともに相手をすることを避け、結局、
新手の500騎も義平軍17騎の前に総崩れ、という、
義平の武功と猛勢を語る逸話になっている。
本年の演題は、この「左近の桜・右近の橘」で、
勇猛果敢に平重盛を追い立てる義平の姿を飾る。 |