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藩政が終わった明治期、 それまで南部藩のお祭りとして運営されてきた山車は、 運営主体を失い、存続の危機を迎えました。
しかしながら、その存続の危機を救ったのは、 各町を取りまとめていた町方火消(南部火消)でした。
南部火消は、藩政期においても南部氏の庇護が厚く、 参勤交代などの有事には、藩主の一行に付き従い、 江戸に逗留することも少なくありませんでした。
江戸の大火の際には、時の藩主・南部重直公と共に 消火に大活躍したとも伝わる南部火消です。
そのため、「南部藩のお祭り」を絶やさないよう、 以降、現在に至るまで、山車の運営や製作の主体は 各町の南部火消(消防団)になりました。
それまでは藩からの援助により 盛大に行われていた祭りは規模を縮小し、 「南部藩のお祭り」から「盛岡八幡宮の例大祭」に変わりました。
また、この頃の演題の趣向は、 七福神や「里見八犬伝」の退治物等が主に飾られたといいます。 |
明治中期の盛岡山車 (明治36年 十三日町 風流 森 蘭丸) |
趣向の変化は、演題だけではありませんでした。
明治中期までの山車は、江戸期同様、 高く大きく作るというのが主でしたが、 文明・文化の西欧化に伴い、盛岡市にも電線や高架が 張り巡らされるようになると、山車は高さの制限を余儀なくされ、 明治の後期には、それまでの高さよりも大幅に高さの低い 山車が増えていくのでした。
また、祭りの装束は、この頃は浴衣が主流で、 行列に付く人々は、演題にあわせた被り物を着ける等、 今の山車にはない習慣があったようです。 |
明治中期の盛岡山車 (明治39年 神子田町 風流 南部中尉)
明治後期の盛岡山車 (明治42年 川原町 風流 浦嶋太郎) |
大正時代の山車も、個性的な演題が多く、 蛾やタコであったり、蝶、だるま、 八幡宮に奉納する衝立などで、「見返し」も無く、 今とは大きく違うスタイルの山車が奉納されておりました。
こうして見ると、大正期までの山車には、おおよそ法則性というものはなく、 「八幡宮に奉納する曳き出し物」であれば、山車だったということができます。
しかしながら、次第に盛岡の都市化が加速し、 山車はさらに小さくなっていきます。
演題も、次第に張子細工等の自由度がなくなり、 最も伝統的であった和人形を使った場面の 組み上げになっていくのでした。
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大正期の盛岡山車 (大正4年 八日町 風流 達磨)
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こうして時代の流れに合わせて常に変革してきた盛岡山車は、 日中戦争・第二次世界大戦・太平洋戦争という 戦争の混乱を経て、一気に様相が変わっていくのです。 |