盛岡八幡宮の祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)=応仁天皇で、
宇佐八幡神社を本宮とし、朝廷を初め武人や庶民にも尊敬されてきたといいます。
これが、平安末期以降源氏勢力の台頭により諸国に広められたのです。
甲斐源氏の血筋である南部家では「櫛引八幡社」を氏神としていましたが、
盛岡に移ってから、不来方館に祀られていた「鳩森八幡社」を盛岡の鎮守としました。
つまり、この鳩森八幡社が今の盛岡八幡宮の起源です。
鳩森八幡社は、前九年の役の際、源頼義と八幡太郎義家こと源義家の父子が
必勝祈願のために建てた社だそうです。
(盛岡山車の演題に八幡太郎義家があるのは、おそらくこういった理由があるのだろう)
江戸時代に入り、社は盛岡城内の一角に建てられたため、庶民は参拝できないものでした。
しかし、二十九代南部重信公が庶民的な性格で、
庶民にも参拝の機会を与えるために、志家の中野山に「新八幡宮」を造営。
これは、鳩森八幡の神様が旅をする先の「御旅所」でありました。
その旅が、「神輿渡御」となったのです。
(現在、八幡宮が本社だけであり、神輿渡御で神様が旅をしてそのまま本社に帰るということになっている)
今の、「八幡下り」のコース(門前町から肴町へ抜けるコース)は、
この「神輿渡御」で、盛岡城から肴町を通って新八幡宮へ向かったコースの名残です。
明治維新で、藩御取り潰しとなったため盛岡城が無くなり、
鳩森八幡社は、新八幡宮に吸収される形となりました。
そして、新八幡宮は盛岡八幡宮として今なお、盛岡の鎮守府の役割を担っているのです。