盛岡山車の独特の風習として、「番付」というものがあります。
これは、各組ごとに製作する、山車の絵を描いたもの (山車を作るうえで、参考にする下絵)です。
この番付は、寄付金をいただいた方に対して、 お礼として差し上げるものです。
江戸時代、江戸いろは四十八火消にならって組織された町方火消は、 危急の際、現場にいち早く駆けつける義勇の者達であり、 彼らにとって、災害以外で見せ場となるのが八幡のお祭りでありました。
南部公は、その旨考慮し、毎年の山車行事に関して 寄付金を集めることを特別に認め、それが山車奉納に対する 寄付集めの始まりとなりました。
しかし、明治維新による廃藩置県の後、祭礼行事に対する 南部藩の庇護がなくなり、その祭礼の費用負担の全てが 町方の支持に頼らざるを得なくなりました。
山車の出場には、参加費や山車の制作費など、 多額の費用が費やされるため、行事の「執行の主体」は、 寄付集めが認められている南部火消し(消防団)に拠るところが 多くなったのです。 |
大正時代の山車番付の例 (大正2年 肴町若者連 風流 ブレリオ式プロペラ飛行機) ※この年、東京・青山でブレリオ飛行機が墜落し、 この遺魂のための演題であった。
※もりおか歴史文化館 収蔵
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かくして、町内やあるいは、祭りで盛岡中を周る際に、 様々なご家庭や商店から寄付を集め、 その費用を投じて、あの豪華絢爛な山車を作っていくことになり、 番付は、その寄付への「お礼」として配るようになったのです。
番付という盛岡山車独自の文化が現在もなお、継続しているのは、 「いただいたものに対してお礼をしなければならない」という 日本人らしさの表れではないでしょうか。
今でも様々な商店やご家庭からの寄付金によって、 山車を製作・運行しておりますし、 そのお礼として、音頭上げや番付の配布が行われております。 |
大正時代の山車の番付の例 (大正15年 新馬町 水原町 若者連 風流 世界の偉人 原敬)
※もりおか歴史文化館 収蔵
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番付をいただいたお店などは、お祭りのあとも1〜2ヶ月ほど、 その年の番付を張っているところもあります。
これは、八幡のお祭りに寄与しているという証でもあり、 その組が多ければ多いほど栄誉なことと受け取られています。
また、ここで触れておきたいのは、 この番付の伝統を作ったともいうべき、 南部火消、自警組織の消防団が、 今も南部火消伝統保存會として生き続いていることです。
消防団は、公的機関として設けられている消防署の職員ではなく、 生業が様々な人の集団であります。
かつては、南部家からの「お返し」のような意味合いを 含んでいた山車行事なだけに、今を生きる消防団の皆さんも 一年に一度許される「山車行事」にかける意気込みは大きいものです。
「義勇の者達」の魂は、今なお盛岡に息づいています。 |
昭和の番付 (昭和30年 長田町 三番組 風流 根本草摺引) ※盛岡山車番付史上初のカラー刷り番付
※もりおか歴史文化館 収蔵
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番付について、最近では、多色刷りの絵が一般的ですが かつては単色刷りのものばかりでした。
多色刷りが一般的に普及したのはここ20年くらいです。
※「秋風」では、「盛岡山車番付名鑑」のページにて、 歴年の番付をご紹介しておりますので、 併せてこちらもご覧ください! |
現在、一般的なスタイルとなっている山車の番付 (昭和60年 盛岡観光協会 風流 勧進帳) |