歌舞伎「春興鏡獅子」より。
江戸城大奥の大鏡曳きにおいて、腰元・弥生が舞を舞う羽目になってしまう。
最初は、恥らう弥生だったが、次第に踊りにのめりこんでゆく。
そして祭壇の獅子頭を持ったとき、その獅子頭が勝手に動き出した。
この獅子頭は、獅子の精を司るものだったのである。
獅子の精に憑依された弥生は、獅子そのものの姿になり踊り狂う。
この場面は、弥生に憑依した獅子の精が、踊り狂う場面を現している。
歌舞伎「春興鏡獅子」より。
江戸城大奥の大鏡曳きにおいて、腰元・弥生が舞を舞う羽目になってしまう。
最初は、恥らう弥生だったが、次第に踊りにのめりこんでゆく。
そして祭壇の獅子頭を持ったとき、その獅子頭が勝手に動き出した。この獅子頭は、獅子の精を司るものだったのである。
獅子の精に憑依された弥生は、獅子そのものの姿になり踊り狂う。見返しは、憑依される前のお小姓弥生の場面を飾る。
平安末期の武将で、源氏に仕えた熊谷次郎直実は、一の谷の合戦の折、沖に向かい行く一騎の武者を見つける。
扇を掲げ、「返せ返せ」と招くと、武者は取って返し、立ち向かってきた。
馬上より落ち、組み伏せて顔を見ると、その武者は、まるで女と見まがうほどの美青年であった。
直実は、わが子と歳が近いことから、どうにか助けんと思案するが、見方の軍勢が近づいている。
やむなく首を討ち取り、その首を包むため、装束を解いた際、腰に付けた錦の袋から一管の笛が出てくる。
実はその日の明け方聞いた笛の音が、この若者のものだったのかと、直実は非情の世に散った若武者を哀れむ。
後、この笛の主は平敦盛(たいらのあつもり)だったと知るのだが、直実はこの事をきっかけに、やがて出家し、蓮生坊と名乗った。
山車では、敦盛を扇で招く次郎直実を飾る。
「枯れ木に花を咲かせましょう」で有名な、おとぎ話の場面である。
歌舞伎「春興鏡獅子」より。
江戸城大奥の大鏡曳きにおいて、腰元・弥生が舞を舞う羽目になってしまう。
最初は、恥らう弥生だったが、次第に踊りにのめりこんでゆく。
そして祭壇の獅子頭を持ったとき、その獅子頭が勝手に動き出した。
この獅子頭は、獅子の精を司るものだったのである。
獅子の精に憑依された弥生は、獅子そのものの姿になり踊り狂う。
本年度、演題に鏡獅子を据えた組は二組であるが、
こちらは鏡獅子が飛び跳ねて、踊り狂っている姿を飾るということで、
「跳ぶ姿の鏡獅子」は、盛岡山車史上初の試みであった。
歌舞伎「春興鏡獅子」より。
江戸城大奥の大鏡曳きにおいて、腰元・弥生が舞を舞う羽目になってしまう。最初は、恥らう弥生だったが、次第に踊りにのめりこんでゆく。
そして祭壇の獅子頭を持ったとき、その獅子頭が勝手に動き出した。
この獅子頭は、獅子の精を司るものだったのである。獅子の精に憑依された弥生は、獅子そのものの姿になり踊り狂う。
見返しは、憑依される前の弥生の場面を飾る。
小田原市の宗我神社周辺は曾我家由縁の土地であり、大鳥居の前にある城前寺の本堂裏には、
曾我十郎祐成、曾我五郎時致、そして母の曾我満江の供養塔が建てられている。
かつて、その地域には曾我家の居城があり、城前寺の道路わきの石垣の中段に、
五郎時致が足の病が治った際に、自分の怪力を試そうとして石を踏んだら足跡が残ったという踏み石があり、その場面を山車に飾ったものである。
歌舞伎「歌へすがへす余波大津絵」より。藤の花の精が、娘の姿で現れ、
夕暮れの鐘の音とともに消えていく。
藤の枝を片手に、黒塗りのかさを被って優雅に踊る。
日本舞踊としても有名な本題は、昔から人気が高かったといわれている。
時は群雄割拠の戦国時代から江戸時代へと変わり行く混乱の時代。
実権を徳川家康に握られ、衰退の一歩をたどる関白・豊臣家を再興するため、
第一の家臣である真田幸村は奔走する。
大阪夏の陣の際、及び腰である豊臣家に業を煮やし、敵の本陣へ向かう幸村。
この山車では、大阪夏の陣において徳川の本陣へと向かう真田幸村の姿を飾っている。
なお、上の写真(鹿角の兜、覆面付き)は八幡下りや大絵巻パレード等で披露され、
下の写真(三日月の兜、覆面なし)は日中の巡行の際に披露されるなど、
工夫されていた。
盛岡はりんごの産地としても有名で、殊に中野地区はその中心である。
この見返しには、りんごを摘む娘を飾ってる。
平家の荒武者として有名な藤原景清は、清水観音に幾度となく守られてきたが、
断食して死んだといわれる。
さて、ある釣鐘供養の場に、景清の怨霊が現れる。
源氏の驕りを戒め、平家の供養を訴えるのだ。
そして、本願が成就したとき、それまで鳴らなかった釣鐘が鳴り出したという。
本年のわ組は、景清を右に配し、釣鐘を中岩から迫り出すほど
大きく作るという非常にダイナミックな作りとなっていた。
紀州道成寺に伝わる安珍・清姫の伝説を歌舞伎に舞踊化。
舞台は桜が満開の道成寺。再興した鐘の供養が始まろうとしている。
そこに清姫の亡霊が白拍子となって現れ、舞を見せているうちに
鐘に飛び込み蛇体となって現れるが、押戻しによって屈服させられる。
この見返しは、花笠踊りの場面を再現したものである。
享保四年、江戸南町奉行・大岡越前守は頻発する火災に備え、
江戸いろは四十八組を作った。当時の江戸火消の本組は、二十五名で
編成された火消組だった。中でも、銀次はよ組の纏取りとして当代一といわれ、
日本一の纏取り「日本銀次」と呼ばれたと伝わっている。
手古舞とはかつては、芸者が男性風の扮装をして山車の先導をしたことに起源がある。
この山車では、現在もなお山車を先導する手古舞の姿を飾る。
俗に「対面」とも呼ばれ、吉例として知られている。
工藤祐経は源頼朝のお気に入りの武将で、富士の裾野での巻狩の総奉行を命ぜられ、祝の席を設ける。
そこに、招かれる曾我五郎時致と兄の十郎祐成。
実は、曾我兄弟は十八年前に父の河津三郎を祐経に討たれ、その仇をとろうと狙っていた。
敵を目前にして血気にはやる弟の五郎と制する兄・十郎。
工藤はこれを見て、鎌倉殿の第一の武将なる自分を討つことはとても叶わぬと言い聞かせる。
工藤は、二人に時節を待てといいつつ狩場の通行手形を与える。
富士の巻狩の時に討たれてやろうという工藤の本心を知った兄弟は再会を約束して別れる。
「初商大見世曾我」において、対面の前に演じられた。
仇の工藤祐経を討とうと狙う曾我兄弟に、静御前が時節を待てと、正月の七草に事寄せて舞うというものである。
正月、曾我五郎時致は父の仇である工藤祐経の顔を思い浮かべながら身の丈ほどもある矢尻を研いでいる。
そこに、大薩摩主膳太夫が年始の挨拶に来て、お年玉にと、宝船の絵を置いて帰る。
五郎は、砥石を枕にし、その下に宝船の絵を敷いて寝る。
すると、夢に出てきたのは兄の十郎祐成。祐経の館に捕らえられているのだ。
五郎はびっくりして飛び起きると、大太刀を取り、身支度をする。
今年の演題では、矢尻を手にし、今にも飛び出さんと逸る五郎時致の姿を飾る。
禿(かむろ)とは、吉原における遊女たちの身支度などを世話しながら、
遊女になるための修行を行う幼女のことである。
この山車では、羽根つきをして遊ぶ、まだあどけなさの残る禿を飾っている。