父・河津三郎の仇をとるため、曾我五郎時致と曾我十郎祐成が、
富士の裾野にて催される鎌倉殿(源頼朝)主催の夏狩りの
総奉行・工藤祐経の館に夜討をかける場面である。
なお、私個人としては、この夜討曾我が「い組」の山車の中で一番好きな演題である。
大磯の太夫職・虎御前が工藤の館へ五郎・十郎を手引きする場面である。
元亀元年、織田信長の家臣・柴田勝家が篭る近江長光寺城は、
六角・一向宗連合軍によって攻め寄せられていた。勝家はよく防いだが、
長光寺城には井戸がなく、敵は城内への水を断つ干殺しの攻めに出る。
羽柴秀吉の援軍も間に合わず、もはや一刻を争う事態となった。
そこで勝家は、甕いっぱいの水を家来に飲ませると、甕を割り、
もう水がないことを告げ、士気を鼓舞した。これによって、
勝家軍は全員、火の玉の如く敵陣に突入。恐れおののいた敵軍は、
総崩れとなり、柴田軍が大勝利をおさめたのである。
初世文字太夫に始まる常磐津節の家元は、現在九世文字太夫まで、
十六代を数え、その菩提所は麻布広尾の祥雲寺にある。
「千代の遊鶴」は、三味線方の岸沢式佐家との関係が、夫婦仲のよい
鶴のように、幾千年も続けられるように祈念されているものである。
平治の乱にて、危うく一死を免れた源頼朝は、十四歳で伊豆に
島流しにされた。二十年後、頼朝三十四歳のとき、以仁王の
令示によって、平氏追討の兵を挙げることとなった。
手始めに、伊豆の目代山木兼隆を急襲して倒し、初陣を勝利で飾った。
この山車は、その出陣の場面を飾ったものである。
1802年、長寿で死んだ摂州西成郡の百姓左右衛門の子、
佐太郎は身長が二尺に満たない大頭の小人であった。
しかし、これが幸いして、幸運に恵まれた生涯を送ったことからその姿を
福徳招来の縁起物とし、江戸で「叶福助」の人形が流行したという。
藤原景清は、平安末から鎌倉初期の武将で、俗に平景清とか悪七兵衛ともいわれる
剛勇無双の平家一の荒武者であった。この「牢破り」の場面は、景清が捕らえられていた
牢屋の格子をぶち破り、暴れまわる荒事を見せる場面である。
なお、この南大通り二丁目は、盛岡で町内会として唯一、山車に参加している。
紀州道成寺に伝わる安珍・清姫の伝説を歌舞伎に舞踊化。
舞台は桜が満開の道成寺。再興した鐘の供養が始まろうとしている。
そこに清姫の亡霊が白拍子となって現れ、舞を見せているうちに
鐘に飛び込み蛇体となって現れるが、押戻しによって屈服させられる。
この山車は、白拍子の姿で舞を踊る清姫の亡霊を飾っている。
鶴岡八幡宮にて、悪人・清原武衡に言いがかりをつけられた、加茂次郎義綱らが
襲われそうになったとき、歌舞伎界のヒーロー、鎌倉権五郎景政が「しばらく、しばらく」
の声とともに、花道より登場する、歌舞伎の世界で最もポピュラーな演題である。
俗に成田屋と呼ばれる市川家由縁の「歌舞伎十八番」として、今も上演される。
歌舞伎「歌へすがへす余波大津絵」より。藤の花の精が、娘の姿で現れ、
夕暮れの鐘の音とともに消えていく。
藤の枝を片手に、黒塗りのかさを被って優雅に踊る。
日本舞踊としても有名な本題は、昔から人気が高かったといわれている。
歌舞伎十八番の内「雷神不動北山桜」より。前幕(鳴神)で、鳴神上人を堕落させた
雲の絶間姫は、文屋豊秀と晴れて祝言の運びとなる。しかし、雲の絶間姫に思いを寄せ、
鳴神上人を殺した早雲の王子が現れ、二人を苦しめる。
そこに突然、不動明王が現れ、燃え上がる火焔を背に、憤怒の形相、右手に宝剣・左手に
羂索を持ち、悪を滅ぼし善人を救うべく大座に構えている場面です。
歌舞伎の長唄「雨の五郎」で「廓通いの五郎」ともいう。
曽我五郎時致が、仇を狙う強さの内にも、金糸・銀糸の蝶の模様の着付けで、
化粧坂の少将の許へ通う華やかな場面の再現である。
川中島の戦いというのは、実は十二年間に、五回も起こっている。
これを近松門左衛門が浄瑠璃にて、「信州川中島合戦」と、近松半二の
「本朝廿四孝」、歌舞伎では河竹黙阿弥の「川中島東都錦絵」に脚色。
信玄と謙信の一騎打ちも、この脚色だといわれている。
消防出初式には、直立した梯子に乗り、上で曲芸をする。
この演目は「金の鯱」である。
歌舞伎十八番の内「暫」の原題は、「参会名護屋」である。
初代市川団十郎が演じたものが、その最初といわれている。
このさ組の「参会名護屋」は、七代目団十郎の不破伴左衛門と
「しばらく」とあずかる八代目団十郎の篠塚伊賀守の名伎の勇姿を
飾るものである。
なお「暫」は、今でこそ鎌倉権五郎景政と定められているが、この当時は、
「しばらく、しばらく」と花道から出てくる主人公を、「暫」と呼んでいたと言う。
この「参会名護屋」では上記の通り、篠塚伊賀守とされている。
歌舞伎「歌へすがへす余波大津絵」より。藤の花の精が、娘の姿で現れ、
夕暮れの鐘の音とともに消えていく。
藤の枝を片手に、黒塗りのかさを被って優雅に踊る。
日本舞踊としても有名な本題は、昔から人気が高かったといわれている。
河竹黙阿弥によって書かれた、 平家物語にある源頼光の妖怪退治を取り上げた歌舞伎の演目。
病床の源頼光を訪ねた僧の姿に、不審を覚えた頼光が切りつけると、僧は蜘蛛の糸を投げて逃げ去った。
この騒ぎに、独武者がかけつけ、軍勢と共に土蜘蛛退治に出発する。
この山車では、土蜘蛛の精が軍倅を踏みつけている場面を再現したものである。
なお、この年から「盛岡観光協会」から「盛岡観光コンベンション協会」に団体名を変更した。
歌舞伎舞踊のひとつで、海女の松風が「在原行平」の形見の烏帽子狩衣を着て、
恋人を偲ぶ振りをするところを演題にしている。