時は、鎌倉の初め。源義経を奥州へ落とす際、主君の身代わりとなった佐藤忠信の奮戦振りを、
歌舞伎狂言に取り入れ、碁盤片手に北条方の討手を蹴散らす忠信。
市川流の荒事に仕立て、元禄時代に上演されたとあり、明治44年には、七世松本幸四郎の
襲名披露に演じられたと伝わるものである。
奥州落ちの義経を慕い、吉野山まで供をした静御前だったが、義経を無事に逃がすため、
自ら鎌倉方の追っ手に捕まる。義経の供をする、静御前の姿を飾った山車。
平安時代初期の武将。蝦夷討伐の戦功を挙げ、征夷大将軍に任ぜられ、
802年に、胆沢城を築き、鎮守府を多賀城からここに移し、翌年、紫波城を築く。
知勇に優れているだけでなく、蝦夷の長・アテルイの処刑の減免を願うなど、
情も厚かったといわれる。
盛岡の夏の名物は、さんさ踊りである。三ツ石神社が発祥の地だと言うのが、
通説だが、日本に伝わったのは欽明天皇が百済から仏教が伝えられた同時期
だという。その後、蓮如が浄土真宗の教えを説くために用いた踊りだったらしい。
盛岡では、この踊りが、明治期より盛んになり、今では「日本一の太鼓の大群舞」
として、親しまれている。
なお、この祭りは例年8月の1〜4日まで開催される。
能舞台を模した松羽目物の大曲で、獅子が我が子を断崖から突き落とす
試練を取り上げた演目である。ある日、日本の仏僧が、天竺清涼山の石橋を渡ろうとすると、
修行が未熟なものには渡れないと咎められる。そこに、狂言師の右近と左近が獅子頭を持って現れ、
この橋の謂れを語る。次に、この清涼山に、浄土宗の坊主と日蓮宗の門徒が登場。
異なる宗旨をめぐって争っていると、恐ろしい物音と共に白毛の親獅子と赤毛の子獅子が登場し、
頭を振り回し、親子の「試練と情」を演じる。
この山車では、白毛の親獅子のみを飾った。
歌舞伎舞踊のひとつで、海女の松風が「在原行平」の形見の烏帽子狩衣を着て、
恋人を偲ぶ振りをするところを演題にしている。
曽我五郎時致は、父の仇である工藤祐経を討とうと計っていた。
正月、身の丈ほどもある矢尻を研いでいると、大薩摩主膳太夫が年始の挨拶に来る。そして、
お年玉にと、宝船の絵を置いて帰る。五郎は、砥石を枕にし、その下に宝船の絵を敷いて寝る。
すると、夢に出てきたのは兄の十郎祐成。工藤祐経の館に捕らえられているのだ。
五郎はびっくりして飛び起きると、大太刀を取り、身支度をする。
この山車は、矢尻を研ぐ五郎時致の姿を飾った。
狂言の舞台「棒縛り」より。主人、松兵衛は自分が留守にする際、太郎冠者、次郎冠者が
棒術にこっているのを聞き、技を見せて欲しいといって次郎冠者を棒に縛り、太郎冠者を
後手に縛る。しかし、不自由な両手を使って面白おかしく踊りながら酒を盗み飲むという作品。
歌舞伎「義経千本桜」より。親狐の皮で作った鼓を打つ静御前を慕う佐藤忠信。
じつは、それは子狐が化けた姿である。
静御前の切ない心情を狐忠信が訴える場面を飾る。
歌舞伎「歌へすがへす余波大津絵」より。藤の花の精が、娘の姿で現れ、
夕暮れの鐘の音とともに消えていく。
藤の枝を片手に、黒塗りのかさを被って優雅に踊る。
日本舞踊としても有名な本題は、昔から人気が高かったといわれている。
花川戸助六とは、曽我五郎が吉原に通う仮の姿。というのも、源氏の宝刀「友切丸」を探すべく、
様々な男の集まる吉原で、わざと喧嘩を吹っかけ、刀を抜かせようという目的があるのだ。
そこに、助六を情夫にする花魁・揚巻が登場。揚巻に言い寄る「髭の意休」が友切丸を持っていることを知り、
助六は意休に刀を抜かせようとするがなかなかうまくいかない。
この山車では、蛇の目傘を掲げ、見得を切る助六を飾っている。
吉原一の花魁、揚巻は、花川戸助六を情夫としている。
豪華な衣装で飾る、助六の舞台の見所のひとつでもある。
藤原景清は、平安末から鎌倉初期の武将で、俗に平景清とか悪七兵衛ともいわれる
剛勇無双の平家一の荒武者であった。この「牢破り」の場面は、景清が捕らえられていた
牢屋の格子をぶち破り、暴れまわる荒事を見せる場面である。
歌舞伎の長唄「雨の五郎」で「廓通いの五郎」ともいう。
曽我五郎時致が、仇を狙う強さの内にも、金糸・銀糸の蝶の模様の着付けで、
化粧坂の少将の許へ通う華やかな場面の再現である。